このページの先頭



ここから共通メニュー

共通メニュー


ホーム > 九州 > 稲尾特集 > 63年逆転Vの裏で…暗転への序章



63年逆転Vの裏で…暗転への序章

球団納会の宴会ではしゃぐ稲尾和久氏(右端)
63年10月、リーグ優勝を飾り、福岡市内をパレードしファンに手を振る稲尾和久投手(中央)ら
◇62年青年内閣

 栄光の日本シリーズ3連覇、そしてシーズン42勝の日本記録…。鉄腕稲尾を同心円に最強を誇っていた西鉄ライオンズは徐々に衰退期を迎えつつあった。62年シーズン、稲尾は57試合に登板し25勝18敗の成績を残したが、前年の42勝、目標に掲げるシーズン30勝からすれば不満の残るシーズンではあった。この年は中西監督誕生に合わせ、主力の豊田、稲尾がそれぞれ助監督、投手コーチを兼務するという「青年内閣」が誕生した。まあ、今のソフトバンクに当てはめれば、小久保監督、松中助監督、斉藤和投手コーチといったところか。いや、それよりももっと若い。すべてプレーヤー兼務である。主力が相次いで他球団に移っていた。球団運営が右下がりとなる中での窮余の策だったが、この青年内閣はうまく機能を果たさなかった。中西監督29歳、豊田助監督27歳、稲尾25歳である。

◇捕手に届かず

 稲尾には前年の蓄積疲労もあったかもしれない。加えて5月にはベースカバーの際に軸足の右足を踏まれるアクシデントにも見舞われた。右肩にも違和感を覚えていた。5月の月間成績は0勝2敗。プロ入り後、登板のあった月で、稲尾は初めて負け越した。裏を返せばそれまで1度も負け越しがなかったわけだから、これまたすごい数字である。1年目の3月から実働44カ月目にしての初の負け越しだった。この年、またしてもチームはペナントを逃した。優勝は東映。3位だったが、実に16ゲーム差も離された。

 翌63年、二女が誕生した。長女多香子が誕生した61年には42勝の日本記録。第2児の誕生を祝福するように西鉄は5年ぶりのリーグ優勝を果たす。豊田は国鉄に移籍、いよいよ西鉄は往年の姿を失いつつあったが、ロイ、ウイルソン、バーマという3人の助っ人外国人の活躍もあって覇権に成功した。稲尾は自身4度目となる70試合超えの74試合に登板し、28勝16敗、防御率2・54の数字を残した。最多勝と最多奪三振のタイトルを手にした。プロ8年目の通算成績が234勝。今季から米大リーグ・レッドソックス入りした松坂が同じくプロ8年で108勝の数字を残したが、倍以上の成績である。当然、鉄腕も少しずつ摩耗していた。

◇治療機会逃す

 「チームも奇跡的に優勝したけど、オレにとって大きなポイントになるシーズンとなった。栄光の8年間からオレの人生の第2章というか、挫折の6年間につながる現象を油断したシーズンだった。9月の西宮での阪急戦だったと思う。ブルペンに入ったら1球目がワンバウンドした。もう1球投げたらまたワンバウンド。肩は痛くなかったけどキャッチャーまで届かない。その日は『今日はダメだ』と言って登板しなかった。でもその後も全然、球が走らなかった。そしたら8ゲーム差あった南海戦で登板指令があった。4連戦で1つでも負ければ優勝は絶望となる。負けたらそのまま別府に行って肩の治療をする予定だったんだけどな」。

 チームは南海4連戦を3勝1分けで乗り切り、その後も順調に勝ち星を重ね南海とのデッドヒートに持ち込んだ。稲尾は終盤の南海戦で2戦連続完投勝利。治療どころかV戦線を投げ抜いた。またしても大逆転Vを成し遂げた。だが、投手稲尾にとっては暗転への大きな序章となっていた。【佐竹英治】



このページの先頭へ