35勝権藤「足元にも及ばない」

- 61年4月19日、巨人を完封し3勝目を挙げた中日の権藤博
◇61年セ新人王
稲尾が日本記録タイの42勝を挙げた1961年(昭36)シーズンはセ・リーグにもとてつもない投手が誕生していた。この年、社会人のブリヂストンタイヤから中日に入団した権藤博投手(現野球評論家)である。稲尾と権藤は1歳違い。稲尾が入団1年目の56年シーズン。当時、佐賀・鳥栖高のエースだった権藤は夏の大会終了後、西鉄の招きでライオンズのテスト練習に参加している。権藤は結局社会人に進んだが、地元の西鉄に入団していたら、と考えると恐ろしいチームが出来上がっていたかもしれない…。
◇社会人でマネ
さて、権藤は新人ながら69試合に登板し、35勝19敗、防御率1・70の数字を残し、輝かしいばかりのルーキーイヤーを飾った。新人王に加え、沢村賞、最多勝、最優秀防御率のタイトルを手にした。登板イニングは稲尾を上回る429回1/3である。「権藤、権藤、雨、権藤。雨、雨、権藤、雨、権藤」-。連日マウンドに上がる権藤は、ファンからそう呼ばれた。プロ1年目にして過酷ともいえる登板、イニング数の支えともなったのは郷土の先輩であり、投手として尊敬すべき稲尾の活躍があったのかもしれない。
権藤氏 稲尾さんは「神様、仏様、稲尾様」だろ。オレは「権藤、権藤、雨、権藤」-。向こうは神様、仏様がついている。比較にならないんだよ。1年目のシーズンは稲尾さんとほとんど同じような日に投げている。でも、42勝して14敗。オレは35勝で19敗。勝利は別としても、稲尾さんは負けない。エースの条件だよな。まして彼がすごいのはチームのために投げるというところ。優勝争いになったら稲尾、稲尾。いやな顔ひとつせずに投げたんだから。稲尾さんが42勝を挙げたシーズンは、西鉄も優勝がかかっていなかった。だから逆に言えば、過酷な優勝争いのないところで登板すれば、稲尾さんは42勝は軽くする、ということですよ。
◇「最高の投手」
権藤は高校3年の時、初めて西鉄の寮で稲尾の姿を見た。パンツ1枚でのっそりと出てきた鉄腕に「これが天下の稲尾か、と思った」(権藤氏)という。社会人4年間は稲尾の投球動作のマネをしてきた。権藤の左足を大きく上げるフォームも稲尾をマネてのものだった。権藤は2年目にも30勝をマークしてるが、登板酷使から4年で投手生命を絶っている。現役を退いてからは中日、近鉄、ダイエーの投手コーチを務め、98年には横浜の監督として日本一に輝いた。投手育成には自身の経験もあって投げすぎを戒めるが、本意ではない。投げる時期に投げないと成長しないことは訴える。
権藤氏 稲尾さんのすごいところは人間の大きさというのかなあ、投球もそうだけど、人としてのスケールの大きさ。西鉄での酷使がなかったら、金田さんの400勝を抜いていたんじゃないかな、と思う。オレが見てきた中で日本最高の投手。人間性も含めてね。
普段は辛口の権藤だが、稲尾の話題となると称賛の言葉が続く。「褒める? 褒めるなんて失礼な言葉だよ。オレは足元にも及ばないんだから」。稲尾が日本記録をマークしたときのセ・リーグ最多勝男の鉄腕評である。ちなみにこの話を稲尾に振ってみると、ただただ照れ笑いを浮かべるだけだった。【佐竹英治】
◆権藤博(ごんどう・ひろし)1938年(昭13)12月2日、佐賀県生まれ。鳥栖高からブリヂストンタイヤを経て61年、中日に入団。1年目に35勝19敗、防御率1・70と大活躍し、新人王、沢村賞に輝く。酷使がたたって65年に内野手に転向。68年に引退した。通算成績は210試合に登板し82勝60敗、防御率2・69。中日、近鉄、ダイエー、横浜のコーチを経て98年横浜監督に就任。同年横浜を38年ぶりの日本一に導いたが00年で勇退した。