「とにかく広かった」平和台
◇輝く「聖地」

- 平和台球場で行われた西鉄対近鉄=69年4月12日
稲尾が初めて平和台球場のグラウンドに足を踏み入れたのは1956年(昭31)の1月3日だった。前年12月に新人合同自主トレーニングのために、すでに唐人町(福岡市中央区)にあった西鉄ライオンズの大円寺寮に入っていた。練習はもっぱら大濠公園外周のランニングと寮にあったブルペンでの投球練習だった。そして年が明けた3日、待ちに待った平和台球場に集合がかかった。
「早く平和台で練習したいなと、思っていた。やっと1月になって平和台に行ったんだが、初めて入った平和台はとにかく『広いなあ』という印象が残っている。それまで球場といったら、高校のグラウンドか、別府球場くらいしか知らなかったし、やっぱりプロ野球が本拠地にする球場というのはすごいなあ、と思った。でも、後になって調べてみたら平和台より田舎の別府球場の方がグラウンドは広かったんだよな。でも、そのときは『これからここでプロ野球人生が始まるんだ』という気持ちの高まりもあったんだろう。とにかく広かったという印象が強い」。
今でこそ、草野球ですらドーム球場で行われる時代だが、その当時は「プロ専用球場」というだけで、高卒ルーキーにはさん然と輝く「聖地」であった。ましてや、西鉄ライオンズは三原監督就任4年目のシーズンとなった54年(昭29)に念願のパ・リーグ初制覇を果たしていた。稲尾入団の2年前のことである。スタンドには雑草も生えていた平和台だが、18歳の稲尾少年のハートはこれから始まるプロ野球人生の出発点にようやく立ったという高揚感が支配していた。
◇54年に観戦
「広かった」。平和台の第一印象をそう振り返った稲尾だが、実は球場に足を踏み入れたのは、この日が初めてではなかった。西鉄が初めてパ・リーグ優勝した54年秋の中日との日本シリーズを観戦に訪れていたのだ。高校2年から入団勧誘を受けていた西鉄球団からの招待観戦だった。
「あの時は特設スタンドの記者席から観戦したけど、まったく球場の印象は残っていないんだよな。グラウンドがどうだとか、お客さんがどうだとか、まったく記憶にない。ただ、しっかりと覚えているのは、中日のエースだった杉下茂さんの投球をずっと双眼鏡で見ていたことだけ。伝家の宝刀・フォークボールが見たい、という一心だった。杉下さんばかり見ていたんで、それ以外は何も記憶に残っていないんだ」。
◇杉下に夢中
杉下の指先に目を奪われてから1年後、プロの「仕事場」として足を踏み入れた平和台は、稲尾にとってその広さとともにまたひとつ大きなインパクトを与えることになる。【佐竹英治】
◆稲尾と平和台 平和台球場で最も活躍したプロ野球選手は、やっぱり稲尾だ。稲尾の平和台通算成績は138勝43敗、7割6分2厘の高勝率をマークしている。通算276勝のちょうど半分の勝ち星を本拠地平和台で挙げた。他球場での通算勝率が5割9分5厘だけに、稲尾は文字通り平和台で強かった。プロ2年目の1957年(昭32)は平和台で18勝1敗。5月21日の近鉄戦から翌58年の5月17日の近鉄戦まで平和台で挙げた17連勝はプロ野球記録。また、57年シーズンはプロ野球記録のシーズン20連勝も手にしている。