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ピンチでささやくもう1人のオレ

61年、この年42勝14敗で最多勝、防御率、奪三振1位に輝いた西鉄稲尾和久
61年、この年42勝14敗で最多勝、防御率、奪三振1位に輝いた西鉄稲尾和久
◇成熟した61年

 2年連続のV逸、結婚1年目の不振…。稲尾にとって1961年(昭36)シーズンは悔しさをぶつける多くの要素が蓄積されていた。60年のシーズン終盤に15勝を挙げ、復活の手応えはつかんでいた。突き指した親指の不安は解消されていた。投手として技術的に最高の成熟期にあったと言っていい。あとは内包された屈辱感をいかにシーズンにぶつけるか、だった。

 「61年の10月に長女が生まれることが分かっていたし『お前が生まれるときにはいい結果を出すぞ』と、思っていた。結婚1年目が、けがもあって20勝しか挙げられなかったし、チームも優勝できなかった。女房が泣いている姿を見て発奮材料になった。確かにチームの全盛期は過ぎて、何かもんもんとした感じはあったけど、それだけにオレが頑張らなくちゃいけないという気持ちも強かった。58年に(南海の)杉浦さんが記録した38勝の数字に何とか追いつこうという気持ちもあった。いろんな意味で意気込む条件がそろっていた」。

 4年目から意識的にひねりを加えたスライダーとシュートの武器もさらに鋭さを増していた。

◇2カ月で10勝

 61年のシーズン初登板は4月9日の近鉄戦だった。近鉄打線を散発3安打に抑え完封勝利でスタートを切った。開幕当初はさほど調子の良くない稲尾だが、この年ばかりは快調なリズムを刻み駆け出して行った。完封勝利で発進し、4月は5勝(1敗)、防御率も0点台(0・59)で5月に入った。5月も同じく5勝(2敗)を挙げ2カ月で早々と2ケタ勝利に到達。前年は1試合しか登板がなかった「鬼門」の6月は3日の南海戦で完封勝利を挙げると4完封勝利を含む7連勝で駆け抜けた。

 「あのシーズンは不思議な現象が2つあった。1つは投球の際のリリースポイントの先に照準を示すようなスパットのようなものが見えた。そこに合わせて投げれば、ピタリとコントロールが定まったんだな。もう1つはピンチの時に、耳元でもう1人の自分が必ずささやいてくれた。これは開幕して間もなくしてから、そういうことが起きた。いつもいつも出てくるわけではないけど、ピンチの場面になると不思議と、オレにささやきかけるんだな。今でも不思議だが、今考えれば、心技体が充実しているときにはそういうことも起こり得るのではないかと思う」。

◇8月には30勝

 前年の60年には39試合登板に終わっていた稲尾だが、この年は球宴前にはちょうどその数字をクリアした。7月11日の南海戦で20勝目をマーク。8月27日の大毎とのダブルヘッダー2試合目に救援登板で白星を挙げ30勝目に到達した。3年連続で30勝以上をマークした57年~59年は、いずれも9月の中旬以降に30勝をクリアした。そのペースから比べると1カ月ほど早い大台到達だった。目標としていた南海杉浦のリーグ記録38勝に肩を並べたのは地元平和台で行われた10月1日の阪急戦。この日はダブルヘッダーの第1試合に先発登板し、7回6安打2失点で勝利投手となり杉浦の38勝に並んだ。さらに第2試合では7回から救援登板。3回1安打無失点投球で勝利をつかみ、リーグ新記録を更新。いよいよ日本記録へのカウントダウンが始まった。【佐竹英治】



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