「来たか」父との別れの時

- 臼杵市にある和田博美捕手の実家前「ラッキー食堂」で記念撮影に納まる稲尾和久氏(右から2人目)
◇三原監督「すぐ帰れ」
「チチキトク」-。 1958年2月5日、西鉄ライオンズがキャンプを張る島原に一通の電報が届いた。父久作の言葉に気持ちを切り替え3年目のキャンプに汗を流していた稲尾は、グラウンドでその電報を手にした。ほんの1週間ほど前、別府を後にするとき、稲尾は誓っていた。「葬式には帰らない」と。
「親父からも1匹の馬が狂えば…とか、早くキャンプに行かんか、とか言われていたし、何よりプロに入ったときに、三原監督や先輩たちから『プロ野球選手は親の死に目に会えないことを覚悟しなさい』と言われていたからね。電報が届いたときは『来たか』という感じだった。親父からも怒られてキャンプに行ったしな」。
手にした電報を三原監督の前で開いた。すると稲尾とともに文面に目を通していた三原監督が意外なことを言った。
「すぐに帰りなさい!」。
◇列車を乗り継げず
稲尾は耳を疑った。そして間髪入れず答えた。
「いえ、帰らなくていいんです」。
だが、知将の言葉は20歳の稲尾の言葉を覆い包んだ。
「何を言っているんですか。今ここに君がいるというのは、お父さんのお陰なんだぞ。早く帰ってあげなさい」。
三原監督の諭すような口調はズシリと稲尾の胸に響いた。
我に返ったような気持ちで、稲尾は慌てて島原を後にした。諫早までタクシーを飛ばしたが、列車の乗り継ぎがうまくいかず、鳥栖までタクシーに乗った。鹿児島本線で博多まで出たが、ここでも別府への乗り継ぎに間に合わず、結局、博多からまたもタクシーで実家のある別府へ急行した。
◇あいつ、間に合わんな
別府に着いたとき、久作はすでに息を引き取っていた。布団に横たわる父の姿を見ながら兄が教えてくれた。死ぬ間際の久作の言葉だ。「あいつ、間に合わんな」。享年63歳だった。
「おれが帰ってくると思っていたんだろうな。でも、親父は『間に合わんな』と言ったと、兄貴から教えられた。何でそんなこと言ったんだろうな。結局、死に目には会えなかった。親父が死んだときは『あの元気だった親父が死んだのかあの親父が…』という感じだった」。
稲尾にとっては大きすぎる父だった。
「今、考えてみたらおれの人生は親父の一挙手一投足を真似していたような感じもあるな。親父の存在はあまりにも大きかったような気がする」。
父久作を回想しているとき、稲尾はハッと思い出したように言った。 「ある試合でピンチの場面があった。ホームに背を向けてどうしようかと迷っているとき、静かに凪(な)いでいる海が見えたんだ。ゆるやかな海がね。過去1度だけだったけど」。幼いころ久作と漁に出た別府湾の景色だった。【佐竹英治】