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背中押した父の最期の言葉

父親と少年時代から海に出た思い出の別府湾で伝馬船をこぐ稲尾(後方)と和田捕手
父親と少年時代から海に出た思い出の別府湾で伝馬船をこぐ稲尾(後方)と和田捕手
◇5日間説得

 年が明けた。親父の願いをかなえ、稲尾は一戸建てを買った。150坪の土地に2階建ての立派な家である。日当たりもいいし、別府湾も見下ろせる。母カメノに「日当たりのいいところに住まわせたい」という父久作の希望はかなった。何とか親父孝行もできたと、ホッとした気持ちでいた稲尾だったが、いざ引っ越しとなると、途端に父久作の腰が重くなってしまった。

 「おれは行かん。お前たちだけで行け!」。

 新しい家には住みたくないと言う。住み慣れた漁師長屋の柱に両手を回し、しがみついて動こうとしない。何とも頑固者の父に家族も困ったが、5日間ほどかかってようやく説得し、両親は新居に移った。

◇容体の悪化

 キャンプも間近に迫った1月下旬のことだった。平和台で自主トレに励む稲尾の元に久作の容体が悪化したという知らせが届いた。慌てて別府に戻ったが、久作の姿はそれほど心配したほどではなく、元気を取り戻していた。だが、余命いくばくもないことは分かっている。稲尾は別府に残り、2月1日から始まるキャンプ合流を遅らせようと考えていた。

 「親父の容体が悪いという知らせが来て、福岡から別府に戻ったけど、3日くらいいたら親父も元気になった。まあ、それでもキャンプには行けないだろう。このまま別府にいようと思っていたら、親父から怒られた」。

 格言好きの父久作は稲尾に向かって言った。

 「1匹の馬が狂えば、1000匹の馬が狂う」-。そしてまくし立てるように続けた。「早くキャンプに行かんか! おれは死にやせん。何しにお前はここにおるか!」。

 父の言葉に気圧(けお)されたわけではないが、稲尾は素直に別府を後にした。気持ちを切り替え、3年目のシーズンに向けキャンプ地島原に向かったのである。

◇常備薬が空

 別府駅から汽車に乗った。「1匹の馬が狂えば…」。何度も久作の言葉が頭に浮かんだ。別府の町が、海がどんどん右後ろに流れて行った。「もしかしたらもう…」。父の言葉が稲尾の背中を無理やり押した。少年時代から伝馬船を漕いで海に出た思い出など、さまざまな思いが頭を駆け巡った。オフの帰省中に知ったことだが、実家の常備薬の胃薬が空になっていた。病院嫌いの親父だったが、体調の悪化は誰よりも本人が気づいていたのだろう。久作は「あれはオレが飲んだんだ」と、ポツリと稲尾に漏らしていた。

 「早くキャンプに行かんか!」。稲尾にとって久作の最期の言葉となった。【佐竹英治】



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